Null Wota Exception

ヌルヲタアラサーがなんか適当に吐き出すところ

これからどう過ごしていくか

 好きなことならいくらでも頑張れるという美談がある。まぁそうかもしれない。思い返してみれば確かに熱中したことはどれも結構好きだったことだ。だけどずっと熱中することが出来ず、三日坊主を一ヶ月ごとに繰り返している。ある意味続いているのかもしれないけど、何事も上達するには数日、一週間とか続けないと意味がないと言われている。実際そうなのだろう。飽き性なんだろうか。

 別の話になるが、最近、匿名ダイアリーなんかで、好きであることと詳しいということに関するテーマの記事をよく見る有吉(アメトーーク!の出演を断るとき)の言葉を借りると、感情型ではなくデータ型じゃなければ好きと公言できない圧力があると、匿名ダイアリーの書き手は言いたいのだろう。

 さて、「好き→頑張れる→上達」ということ、「好き=データor感情」ということから、何故熱中が続かないのかを推測してみたい。

 データ型から考えてみる。上達という言葉が知識量を増やすことという意味としたとき、「(データ集めるのが)好き→頑張れる(もっと知りたい)→上達(知識量の増加)」という流れが考えられる。この流れで続かない理由は、もっと知りたいという欲求が無いか、頑張る方法を知らないからだと言える。

 次に、感情型の場合を考える。言葉の定義にもよるけど、楽器ひきたいとか何か作りたいとかいう目的があったとすると、「(体験が)好き→頑張れる(もっと感動したい)→上達(経験値・技術の向上)」という流れで頑張れるのではないかと思う。続かない理由を同様に考えると、先ほどと同様に、感動したいという欲求が満ち足りるなどして消失したか、頑張る方法を知らないかのどちらかだろう。

 いずれのケースにおいても、好奇心・欲求が満たされてしまったら、そこで止まってしまうなと感じた。

 自分の話に戻って、そこに原因があるとすると、何か好奇心や欲求による衝動を妨げているものがあるのだろうか。それとも単に、感情的に満足を覚えて、しばらく経ってまたその感動を体験したいと思う時まではやろうと思わないのだろうか。

 「面倒くさがる」「フラストレーション」「コミュニティの存在」「習慣付け」といったキーワードも絡めて考えていきたい。

で?

 それをしてどうなるの?と考えていくのは、目的が明確になり得ない事に対してすべきではないのかな。趣味とか人生とか。一つのことでも色んな目的がある。

 Twitterで愚痴をつぶやくのやめたい。メンヘラ芸というか。度を超えた自虐は不愉快だと自分でも感じるので、そういうことはやめていきたい。それで次にどうするか、ということを考えればいいんだから、不愉快なことは黙ってればいいのです。

 質問の意図を察して論理的に答えるというのが難しすぎる。考えてると頭がじわーっと熱くなってオーバーヒートする感覚すら感じる。というか、わざわざ考えるのが面倒くさいのね。思考を放棄するのを感じる。

もう意味がわからない

 勉強が手に付かない。原因は何か可能性を考える。

 1.やるだけ無駄。まぁ大丈夫だろうと勉強しないでいてここまで来てしまい、試験で結果を残すことが絶望的な状況にある。どうせやっても無駄なら最初からやらないほうがマシと思い体が拒絶している。

 2.失敗するのが怖い。駄なら最初からやらないというのはそもそも失敗するのが怖いからだ。

 3.やり方が分からない、どの程度やればいいのか分からない。過去問とかがあればそれにむけて対策出来る可能性がある。だけど過去問あっても結局諦めたこともあったし……。

 4.高い目標を設定してがむしゃらに何かやるというのが出来ない。でもそのがむしゃらっていう抽象的な目標設定は自分を苦しめるだけだ。

 5.勉強してみて、自分が出来なくなっている事を知るのが怖い。

 6.勉強出来ない自分を気に入っている。そういう考え方がこびりついてしまい体がいうことを聞かない。

 7.勉強出来ないアピールをしてかまって欲しい。ただかまって欲しいだけなら他にやりようもあるのではないか。仮にそれでかまってもらえたとして俺は勉強出来なかったことを絶対に後悔すると思うからかまって欲しさがあることは認めるが多分違う。

 8.勉強できないアピールをしていれば勉強出来ないことを正当化出来て面倒くさいことから逃げられる。面倒くさいだけか?別に解くことに抵抗は無い。

 9.勉強出来なかったことが原因で落ちて、可哀想な自分になりたい。それでかまって欲しい。成功者は常に成功していないといけない感じがある。

ぷちぐち

 ブログは何かを愚痴るのは広すぎるし、現実の世間から離れすぎている。ただ現実との距離感はこのくらいがいいのかもしれない。顔本は猫かぶってるし、ツイッターは繋がり過ぎていてあんまり下手なこと言ってると嫌われそうで怖い。ま、それで嫌われるなら最初からスルーされてるか……。

 不幸に思うことの大半が人間関係に関連している気がしてきた。このままだときっと永遠に幸福になれない。趣味でも仕事でも家族内でも、人とどう付き合っていけばいいんだろう。

 俺は何がしたいんだ? 何か作ってるのは褒められたいからなんじゃないか? だとしたら本当にひどい。

微妙

 今朝気づいたことがある。それは試験勉強と就職活動の共通点で、これは世間一般に当てはまるものではなく自分がどう感じているかという点で共通しているんだけど、他所で勉強をしている人たちから受けるプレッシャーと、他所で就職活動をしている人たちから受けるプレッシャーが同じだった。

 試験勉強も就職活動も、絶対的に正しいやり方は無いけど、効率の良い・悪いやり方、受かる可能性の高い・低いやり方、みたいなのはあると思う。じゃあ自分の今のやり方は果たしてどうなのか。先輩の話からネットの噂まで、色々な情報を仕入れはした。だけど今の自分のやり方で大丈夫なのか分からない。

 試験勉強では、他の同級生がどういう勉強をしているのか分からないし、勉強していて「果たしてこのやり方で良いのだろうか……」ということを良く感じていた。

 では就活はどうか。俺はメーカー一本で勝負しているところがある。メーカーというのは他の業種と比べて多分選考が遅い方で、周りの人達の話を聞くと、もうグループディスカッションをしていたり、一次面接があったり、もう既に結果が出ていたりするところもあるらしい。

 また自分の専攻は推薦制度の存在感が異常で、行きたい所には必ずと言っていいほど推薦枠がある。俺が見ている企業の多くが推薦採用を行なっているので、そんなに多く受けなくても良いのでは?という気がして、実際それほど受けていない。自由も数社しか受けていない。

 他の人達は何十社も受けていて、毎日ES書いて、研究もちゃんとやって、遠くまで遠征して……それに対して自分はのほほんと今までとあまり変わらない生活を送っていて、これが効率の良いやり方だったら良いんだけど、絶望的なやり方をしている可能性も十分あって、内定貰えるような人間ならそれで良くても、自分の資質を考えると、やはり絶望的なのでは……みたいなことを考えてしまう。

 なんというか、みじめだ!! 他の人達が頑張っている様子を見せつけられて、自分は全然頑張ってなくて、考えも浅はかで、なんてみじめなんだ!この劣等感!試験勉強の時もそうだった、勉強してもきっと他の人達には追いつけない、無駄だ、無意味だ……そんなことを考えることがあった。かといって逆に、自分が見せつける側に転じて頑張ってますアピールして対抗することは多分可能だけど、そんなのまた負の連鎖を生みかねない。

 ……まぁでも落ち着いて考えてみると、そもそも劣等感を感じる性格なのが良くないのかもしれない。他人が頑張っている→俺は頑張っていない→負ける→悲しい、という考え方があるのかもしれない。そもそも負けるの意味が分からないし、頑張っていないといってもそれは比較であって、それなりにやることはやっている、と思う……。

 幸福を得ることだけ考えれば、他の人がどれだけ優秀でどれだけ頑張っていようが、自分には関係ないことなはず。今から努力型の人間にもなれそうにないし、自分は自分のやりかたで進めばいいのかもしれない。それで仮に行きたい所に行けなくても、今の自分からするとそれは悲しいことだけど、将来の自分からしてみれば住めば都というか、何とかなっていると思う。

 いちいち他人の動向に左右されたくない。そう思う反面、他人からの影響無しで自分を確立出来るほどの個性も無い。ああ、0か1じゃなくてバランスを考えればいいのか。他人からの動向から、劣等感を感じる必要なんてない。

手を動かす

 最近工作とか全くやってなくて、手を動かせていない。一応今考えているものとしては、同軸インジェクターの噴霧観察用試験ピースの作成とか、ヘッドホンアンプの設計とかやっているけど、前者は学校の工作室に行く機会が減ってしまったため止まっちゃってるし、後者は設計もほぼ出来ているのに、どうしてか実際に作ろうという気にならない。

 何故やらないのか、インジェクターのほうから考えてみたい。インジェクタの部品は、設計は終わっていて、実際に加工も始めているんだけど、ある時期に突然止まってしまった。その時期というのは、就活がスタートした時期でもあり、旋盤加工からフライス加工へ移行した時期でもある。

 ここで、就活のスタートというのは、やらない理由にはならないと考えている。12月は別にそこまで忙しくは無かったし、やりに行く時間を作ることは可能だった。むしろ気晴らしにすらなるだろうと思っていた程度だ。1月2月についても同様。ただし、工作室が仕えるかどうかという疑念は常にあった。

 では、フライス加工への移行時に何か問題があったのだろうか。あるとしたら、例えば、フライス加工への苦手意識だが……別に旋盤もフライスも同程度に下手くそで同程度にこなすことが出来るから、それはないかな。むしろそれよりも大事な要点がある。フライス加工ではネジ穴を開けて、そこに部品を取り付けるのだけど、その部品が手元に無いということだ。

 その部品というのは、プラスチック製のチューブをすぽっと嵌めて接続できるようなコネクタ、チューブ継手とかワンタッチ継手とか言われているもので、空気や水を流すために使う。それをまだ持っていなかった。

 実際に加工をしてみても、部品がちゃんとはまるかというのは重要で、また、設計の方も実物が届いてから確認したらこれじゃダメだった、という可能性もある。だから、部品が欲しい。部品が無いと不安だ!不安だ!!だからやりたくない!!!……みたいな事になっているのではないか、と想像してみた。

 それはそれにせよ、確かに、部品が全部揃ってないのに作ろうとしても、途中までしか出来ないし、それはなんか違う……。よく、完全に準備してから取り掛かるのでは遅い!とかいうライフハックというか精神論というかがあるけど、少なくとも作るということに関して言えば、部品が揃ってない、工具が揃ってない状況でやり出すのは難しいと思う。

 ヘッドホンアンプの製作のほうを考えてみよう。例えば、電源回路の材料はあるけどアンプ回路のはない、なんて時には、まぁ電源回路は作れるし始めれば良いと思うけど、電源回路の材料も不足していて、そのブロックひとつ作れない程度の状況は、準備不足と言わざるを得ない。

 準備0%の状態で始めるのは不可能だし、準備99%の状態で始めようとするのもそこまでに達する時間が長すぎる。だから、準備20%、50%位の段階でスタートすれば良いと思うけど、それって具体的にどのくらいなのか分からない。20%と、20.0001%の違いってなんだ?そんなの定義すら出来ない。

 そこで、進捗を何段階かにわけてみようと思う。1段階進めるレベルの用意が出来たら、その段階にとりかかる。そしてそれが終わったら次の段階に挑戦する、というように、進捗を離散化すればやりやすいのではないだろうか。電源回路製作、アンプ回路製作、ケース加工、調整、という4つの段階に分けて、出来る所から始める。

 って、この「段階に分けてやる」という手法は、ある意味当たり前のことだと思う。それを再認識出来た、というのが今日のまとめです(適当)

 勢いに任せて継手もポチったし、今度は秋葉原で電源回路に必要な部品買ってこようかな。では。

メモ

 最近ESを書いていると「こんなの社員からしてみれば当たり前の事……ダメだ」と思ったり「いいや若いんだから許される」と思ったりテンションが不安定。

 自分に関しても他人に関しても、自信持てる理由も分からないけど自信持てない理由も分からない。

 そこで落ち込むのは理論が破綻している→気をつけないと破綻した理論しか考えられない→糞だわ終わってる←理論の破綻→最初に戻る